磯野農場小作争議
磯野農場小作争議
第一次世界大戦後のいわゆる戦後恐慌によって、農民の生活は貧窮していた。農産物価格かかくが暴落ぼうらくし、しかも農家のうかが購入こうにゅうする物品ぶっぴんの方ほうがインフレで高たかくなったため、農家のうかの経営けいえい
は破は綻たん寸前すんぜんの状況じょうきょうだった。北海道ほっかいどうでは、何代なんだいも続つづく地主じぬしが集落しゅうらくの中心ちゅうしんにいることの多おおい
本州ほんしゅうとちがい、地主じぬしは都会とかいに住すみ、農地のうちに管理人かんりにんを置おく場合ばあいが多おおかった。こうした地主じぬしは
不在ふざい地主じぬしと呼よばれ、小作人こさくにんとの関係かんけいを難むずかしくした。小作人こさくにんは精魂せいこん込こめて作つくった米こめを契約けいやくし
た額がくに応おうじて、小作料こさくりょうとして収おさめなければならなかったが、米価べいかが値ね下さがりすれば生活せいかつが
苦くるしくなるので小作料こさくりょうの軽減けいげんを要求ようきゅうする。一方いっぽう、米価べいかの値ね下さがりは地主じぬしにとっても減収げんしゅう
となるから、地じ主ぬし側がわは収入しゅうにゅうを確保かくほするために小作料こさくりょうを引ひき上あげようとする。このように
小作料こさくりょうをめぐり地主じぬしと小作人こさくにんが対立たいりつする小作こさく争議そうぎが各地かくちで起おこっていた。
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磯野農場の場所

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大正たいしょう末期まっきから昭和しょうわ2年ねんにかけて起おきた磯野いその農場のうじょう小作こさく争議そうぎは、プロレタリア作家さっか小林こばやし多た喜き
二じの小説しょうせつ「不在ふざい地主じぬし」のモデルとなったこともあって、全道的ぜんどうてきに有名ゆうめいな争議そうぎである。磯野いその
農場のうじょう(今いまの富良野市ふらのし北きた大沼おおぬま)は、小樽おたるで米穀べいこく海産物かいさんぶつ問屋どんやを経営けいえいしていた磯いそ野の進すすむの所有しょゆうで、
30戸こあまりの小作こさくに寄生きせいした典型的てんけいてきな不在ふざい地主じぬしだった。1926年ねん(大正たいしょう15)、富良野はふらの
大凶作だいきょうさくに見み舞まわれた。小作人こさくにんの多おおかった富良野ふらのでも、凶作きょうさくの年としは小作料こさくりょうが減免げんめんされるのが
普通ふつうだったが、磯野いそのは小作人こさくにんの減免げんめん要求ようきゅうをはねのけた。収穫しゅうかくが失うしなわれた上うえ、高たかい小作こさく 料りょう
を納おさめれば食たべていくことができない。小作人こさくにん達たちは、小作料こさくりょうの延納えんのうと減免げんめんを要求ようきゅうし、地主じぬし
のいる小樽おたるに28名めいからなる争議団そうぎだんを結成けっせいして乗のり込こみ、直接ちょくせつ磯野いそのに訴うったえる挙きょに出でた。
小作人 こさくにんが農地のうちから遠征えんせいするなど異例いれいのことであり、小樽おたる市内しないはもとより全国ぜんこくに反響はんきょうを呼よ
んだ争議そうぎであったが、労働ろうどう組合くみあいの援護えんごもあり、40日間にちかんに及およぶ闘争とうそうの末すえ勝利しょうりした。
この争議そうぎは、重おもい小作料こさくりょうの負担ふたんをはねのけ、小作農こさくのうが生産者せいさんしゃとしての権利けんり意識いしきに目め覚ざめ、
惨みじめな生活せいかつの改善かいぜんを勝かち取とろうという、まさに生活権せいかつけんを求もとめるたたかいであった。また
北海道ほっかいどうの農民のうみん運動うんどう史上しじょう初はじめて、農民のうみんと労働者ろうどうしゃが提携ていけいした闘争とうそうであった点てんにおいても画期的かっきてき
であった。
【『民衆が語る 富良野100年のあゆみ』第2章 第5節 磯野農場小作争議/『富良野市開庁100年記念
富良野市―北の国から発信するヘソ文化』第2部 闘志の時代 ―不在地主― を参考に構成】
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※闘争に勝利し争議団を解散したときの写真。この争議団の中心に、後にベベルイ川改修工事の総括責任者として
たび重なる氾濫に困窮する流域の農民を救済し、また富良野地区外1ヶ村の軌道客土期成会を結成して1,653ha
の道営軌道客土事業を完工に導くこととなる、当時23才の青年奥野善造がいた。(2列目右から2人め)
【『民衆が語る 富良野100年のあゆみ』より】